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いそがやアートCV 有限会社磯谷商店 文化事業部
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赤尾ふさこ (1/6)

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劉生日記 大正8年 (1919)    蓁日記抄 大正6年  (1917)


* 文中に「磯ヶ谷」とあるが、正しくは「磯谷」
蓁日記抄 (七) 岸田劉生全集月報7第9巻  発行:岩波書店 1979年10月
「劉生日記 一 」 発行:岩波書店 1984年
「劉生日記 二 」 発行:岩波書店 1984年
「劉生日記 三 」 発行:岩波書店 1984年
「劉生日記 四 」 発行:岩波書店 1984年
「劉生日記 五 」 発行:岩波書店 1984年
「摘録 劉生日記」  編集:酒井忠康 岩波文庫 1998年
年号日付日記 掲載誌掲載ページ
1917大正6年4月2日楽しみにして居た東京行もとうとう過ぎてしまつた。けれども本当に楽しかった。劉生様など考え出すと楽しい思出だといつて喜んで居られる。麗子もその為身体がとうといふ事もなかつた。長与さんの家へ卅一にちの午後四時頃行く。久しぶりでどこもなつかしく又その日は馬鹿に風のないあたたかなよいお天気だつたので本当に嬉しかった。途中で劉生さんは兼ねてあつらへて置いた額ぶちを取りに磯ヶ谷へ寄らる。 (後略)蓁日記抄(七)p.4
      
1919大正88月6日(前略) 臨時の収入や月々のあまりその他の収入はこの臨時費にかへる事にする。 さしづめこの臨時費からイソガヤの払ひ、高島屋の払ひ、色刷会の払ひ等をする。それでも五百円はのこる(照子の入院費は別にとらうと思う。)(後略)劉生日記 一p.184-186
  12月12日(前略)艸土社の第七回展覧会が十二月八日から開かれるので忙しい。いそがやの人に来てもらって荷造りなどする。(後略)劉生日記 一p.201-204


 

劉生日記 大正9年 (1920年)


1920
大正9
3月17日
(前略) 蓁はイソガヤ(磯ヶ谷)に水彩十二枚持って行ってマットを切らせる。(後略)
摘録 劉生日記
p.27
  
3月19日
展覧会用意のため上京。田中へ寄り女中に俥頼んでもらい、十時十二分の汽車にて出る。十一時半ごろ磯ヶ谷へ寄れば額がまだ出来ていない。しかし間に合う由。いろいろたのむ。丁度出来合いの素画のフチが四十枚ほどある由、それを京都の山本源之助へ送ることたのむ。(中略) なかなかイソガヤ持って来ず、五時ごろようやく来る。
摘録 劉生日記
p.27-28
  
3月25日
今日も雨、しかも強し。余は会場のかたづけに、十時十二分の汽車にて上京。今日も洋服きて行く。会場に行けば半分程画おろしてある。店の人、女の人も手伝いくれてぢきに片づく。額は近藤に大部分あづけ、家にあった分だけ持ち帰る事にする。片づいた頃電話にて電話にて木村から来たいから待ってゐて呉れと云ってくる。電話にて磯ヶ谷に京都に額縁送る事頼む。山本源之助の注文也。(後略)
劉生日記 一
p.282-283
  
4月12日
巣鴨に見舞の為上京。途中イソガヤに寄り、払ひの中二百円渡す。(後略)
劉生日記 一
p.302-303
  
4月20日
昨夜麗子歯痛にて亡きし由、目さめてから知る。今日は兄の初七日なれば墓参りを兼ねて麗子を歯医者につれ行き、十日に写さなかった麗子七歳の誕生日の記念の写真を撮らさせようとて、余と蓁、照子、麗子の四人にて出かけしも、時間が少しおそかったのと、イソガヤに託して京都の三角堂へ送る畫を忘れたのとに行く気をなくされて余だけ一人家に帰り、後三人で上京。(後略)
劉生日記 一
p.308-309
  
4月21日
麗子は今日も歯医者に行くので照子と余の三人上京。余はイソガヤに三角堂に送る可く畫を託す用事と、ブラブラしていゐるよりは友達でもたづねようかと思って一緒に上京したる也。十時十二分の汽車にて上京、桜田本郷町にて麗子の靴を買ひ、照子達は歯医者に、余はイソガヤに寄る。畫の事(上水風景)託す。石川伊十に会ひ、研究所時代の友達が一度寄合はうなど話す。一平さんと一緒に上野の表慶館の醍醐寺宝物特別展覧会を見に行く。乗合自動車で上野に行き、そばの洋食やで一緒に昼食す。表慶館のものは二流のものではあるが中々美しい。下畫らしい毛筆の素描にいいものがある。(後略)
劉生日記 一
p.309-310
  
5月6日
毎日うっとうしい天気也。それに夜よく眠れず、毎日頭がわるくて弱る。(中略)鵠沼は一時雨がやんで道もよかったので駒下駄で行ったら新橋を出ると道がわるく弱った。元園町の近くの下駄屋で足駄を買ふ。まだ一度もはかぬのが一足先日買ったのがあったが、あれは依然借りぱなしにした磯ヶ谷の一平さんに返す分として、とに角足駄買ふ。武者とは久しぶりに会へて本当にうれしかった。(後略)
劉生日記 一
p.323
  
5月9日
今日は椿と上京する日。十時十二分の汽車で行くつもりでゐたら支度中に田中松太郎が来る。(中略)汽車にカツカツに間に合ふ。汽車の中にて昼食がはりに御すし三人前二人で食ふ。イソガヤへ行き、聖徳太子展覧会へ出す静物託し、牡丹のためのフチの催促をし、それより木村を訪ねしに今芝川と上野の展覧会へ行きし所也といふ。(後略)
劉生日記 一
p.325-326
  
5月31日
今日は曇っていたので、東京に行くこととする。蓁と二人で出かける。途中椿を誘ふ。椿は三十日の払ひの事を心配してゐるらしいので、たてかへる事にする。椿と三人で上京、十時十二分の汽車也。磯ヶ谷により、牡丹のフチの催促し、銀座に出で、十字屋にてレコードとる。
劉生日記 一
p.348-349
  
6月15日
今日はリーチの送別会の為上京。(中略)蓁は一汽車先に帰ってゐて、びゃうぶも牡丹のフチも出来て来ていた。
劉生日記 一
p.362-363
  
6月26日
今日は有楽座に長与の孔子の帰国見に行く日、照子、麗子も歯医者で上京、十時五十三分の汽車に乗る。(麗子たちは九時の汽車)イソガヤに寄って中島に持って行ってもらった八号の縁を聖徳太子奉賛会へとどけてもらふ事たのむ。(後略)
劉生日記 一
p.371-372
  
11月30日
今日はイソガヤに原君その他のフチをあつらへたり、払ひをしたりする用や田中松太郎へ艸土社のカタログの為麗子毛糸かたかけの肖像持って行く用事で上京。朝不意にまた麗子を楽しませてやる気になって、つれて出る。カンジンの畫を忘れたり何かして、引きかへしたりまごまごしてたうたう、十時十二分の汽車は電車降りると出てしまった。長与立吉に会ひ十時五十四分の汽車で同車する。立吉君の母は大分いいとか。新橋の二階で昼食、麗子は大喜びで食べる。イソガヤに行きエック型の又新しい型のもの一つ西郷の「麗子」の為にあつらへる。百円支払ふ。あと九十八円残って居る。それから田中松太郎に行ったが田中ではカタログの写真は間に合はぬ由、麗子肖像の写真丈頼んで来る。(後略)
劉生日記 一
p.495-496
  
12月15日
艸土社の用意のため上京。(中略)余は椿と夕方会場を辞し、新橋で夕食し一寸銀座へ行く。イソガヤに行って額の催促する。八咫屋で梅田さんの畫の縁二枚頼んで来る。(後略)
劉生日記 一
p.506-507
  
12月16日
艸土社最初の日、九時の汽車で上京。 (中略) ○西郷のためのフチが出来て来て居たが立派ないゝフチだった。
劉生日記 一
p.507-508
  
12月24日
今日は展覧会場へ行って見ようと思ひ、十時五十二分の汽車で上京。藤沢の駅員が間違えて横浜までの切符をくれたのを気づかず、新橋で追徴されて馬鹿らしかった。新橋駅で木下の妻君に会った。磯ヶ谷によって十二号のフチをあつらへ会場へ行ったら、同人は一人も来てゐず会場も淋しく心細い気がした。(後略)
劉生日記 一
p.513-514
 

劉生日記 大正10年 (1921年)


1921
大正10
1月5日
朝食をしてゐたら椿の妹が来て椿は脚気の工合で上京出来ない由、丸山とセザンヌの風景畫を見に上京。一寸つばきへよったらねてゐた。十時十二分の汽車に辛うじて乗る。新橋の二階で昼食、磯ヶ谷へ寄ったら先日見たゴッホが来てゐてこれから田中へ写真うつしにやるところとか、一平さんは今日午后細川氏へ来たセザンヌの自畫像の縁の事で細川邸へ行くといふ。結局一所に行ってみる事に約束し、丸山と二人で田中松太郎氏へ行きセザンヌを見る。ほんのかきかけだが、悪くない。打たれもしないが、しかし、もっと描いたものが欲しいには欲しい。丸山と別れて磯ヶ谷へ引き返す。一平さんはこの春洋行すると云ってゐた。オランダの古い縁買入をたのむ。イソガヤの店は幕を張って一平さんの子や石川伊十の子やの畫の展覧会してゐた。イソガヤらしい気持のいゝ事だ。一平さんと電車で江戸川迄行く途中文房同へ寄りポッツピーオイル二本買ふ。老松町の細川邸へ行きイソガヤのつれだと云ってセザンヌ見せてもらふ。やはり一度位しかぬってないかきかけのものだが、気持ちはいゝ。深い味はまだ出る処まで描いてない。しかし悪くはない。ボラールの本にある畫だ。結局細川に名を知らせない気でゐたが、知らせる事になりあらためてあいさつする。五時頃辞し、東京駅を六時十五分の汽車で帰る。 (後略)
劉生日記 二
p.8-9
  
1月7日
八時過ぎ離床。家では七艸はかゆをたかないでいつも雑煮にしてゐる。(中略)今日イソガヤから暮に出した艸土社出品の荷がやっと到着した。(後略)
劉生日記 二
p.10-11
  
1月9日
今日はいゝ天気である。風邪なので、朝食に一寸おきて床に入ってゐたら、犬養が伊集院といふ学習院の人をつれて来る。それでとこをあげて起きてしまった。ストーヴをたいて部屋をあたゝめてある。丸山は日曜なので一寸来る。 イソガヤからついた荷を開けてもらひ、麗子の自転車に油をさしてもらったら大へんなめらかになったとか。(後略)
劉生日記 二
p.12
  
2月14日
九時頃離床。蓁、椿の三人で上京十時五十二分の汽車也。(中略)イソガヤに至り、素描自画像(原氏に贈るもの)うけとりイソガヤの一平さん洋行のために義捐の展覧会の事承知する。ガクブチなど催促し、新橋ステーションにて蓁とおち合い二階にて久しぶりにうまい夕食をする。(後略)
摘録 劉生日記
p.88-89
  
3月3日
今日は麗子のひなまつりの日だが、お菓子などかひそびれて、只飾ってある丈け、それに今日は麗子は鎌倉の付属小学校へ入学させるための入学試験をうけに蓁と行く。(中略)イソガヤの若い者が畫を取りに来、牡丹渡す。しばらくして名古屋出品の畫が返ってきたので、椿の処へ行ってゐるイソガヤに家へ畫をとりに帰ってこらふ。(後略)  
  
3月6日
七時二十分頃離床。(中略) 婦人たちはじき別れ、もう一度清宮とイソガヤの一平さんの洋行後援の各派名流という展覧会を見る。余と木村が出しているがうれていなかった。しかし他に十点以上うれていた。長原氏の唐土の人形をかいたものがちょっと面白かったぎり他はつまらない。和田三造などはあんまりつまらないのに驚いた。それから清宮ともう一度白樺の展覧会へ行く。(後略)
摘録 劉生日記
p.92-93
  
3月10日
昨夜おそかったのでねむく、十時ごろ離床。頭悪くて仕事にも気がすゝまないし、今日は春らしい天気だから仕事休んで東京へ行き椿への祝ひものや、イソガヤへの用事やらをして来ようかと思ふ。先日のガクブチをあつらへて来るつもりだ。それから八号の先日あつらへたフチも催促して来るつもり。(中略)七時四十五分の汽車で帰る。 今日jはとうとう第一の用事である磯ヶ谷によれなかった。毎晩遅いので、はやく帰り度かったので、帰って入浴。 買ってきた娯楽世界を床の中で十二時過迄よんでゐてからねた。今日からうすい方のスエーターを一枚ぬいだ。
劉生日記 二
p.73-74
  
3月16日
頭わるく、一度おき様としたが又下に蓁の床がしいてあったのでその中で新聞を読んだり少しだらけてしまって、十時頃におきる。 (中略)今日はどうも頭もわるく仕事も出来そうもないので、一昨日田中松太郎君が、留守に来たといふので、その方の用やイソガヤへの用やをかねて、麗子つれて上京と決し、十二時二十一分の汽車で上京する。汽車でスシを麗子にかってやる。桜田本郷町の内田で麗子に新しく靴をとったが、ぢき金具がこわれたので、神田の靴屋でなほしてもらったら又とれてしまった。イソガヤにて、破れた水彩の修繕をたのみ、先日白鳳社で写したエックのフチの型を八号にあつらへ、フチのさい促などし、神田の田中氏を訪ねたらあいにく留守。(後略)
劉生日記 二
p.80-81
  
4月7日
今日は上京する事にし、十時五十四分の汽車にのる。(中略) 三人で一緒に銀座に行き、少し散歩し、イソガヤに行ったがふちは出来ていなかった。清宮も額縁をあつらえる。(後略)
摘録 劉生日記
p.99
  
4月28日
今日は蓁が同級会と髪ゆひその他のようで上京。余も、芝川に借金する用や唐紙を買ふ用やらで一緒に九時三分汽車に乗る。(中略)芝川と別れ、イソガヤへ寄り八号のシタンのフチをうけとり六時二十一分の汽車に新橋からのつたら蓁と一緒になる。(後略)
劉生日記 二
p.122-123
  
5月15日
今日は麗子、信行女中のしもなどつれて、動物園を店に行くことになってゐる。(中略)八時四十分の汽車で帰ったら丸山と長野県の一志君が来て待ってゐて、結局今月末長野で展覧会と講演する事に定り、畫を四枚イソガヤに持たせてやる事になり一志は止まる。留守に新潮の中根君が来たとか。
劉生日記 二
p.142-143
  
5月17日
九時半離床。(中略) 丸山今日余の信州での展覧会の為に「早春一日」「京都スケッチ」「灯篭流し」その他水彩素描等十数点イソガヤに持って行ってくれる。 羊羹を買ってきてもらふ事頼む。(後略)
劉生日記 二
p.144-145
  
6月25日
目がさめたら風と雨がひどくあれてゐたので今日は東京行きをどうしやうかと思ったが早くやってしまいたいのと(入沢氏は今日休むと三四日かけないから)忘れ物もあったりしたので少し位なら行く事にして下へおりたらいい案梅に風も雨おさまった。(中略) しかし今日はいつもより永く服などかいて一寸近藤氏のバックなどかき四時仕事をおへそれから磯ヶ谷に行き、額の事交渉し、出来てゐた六号のフチ二枚受けとって、新橋から四時四十五分の汽車で帰る。 (後略)
劉生日記 二
p.187-188
  
10月3日
今日は上京する日。朝七時前椿が来て、上京したら頼むとて速達のハガキを持って来る。しばらく椿と話す。八時五十四分の汽車にて上京。今日は金の算だんをし、買ひものなどする用事なのだ。それと帝展に出品を磯ヶ谷にたのむので麗子洋装の図を持って行く。鵠沼の電車どうも千葉清先生によく似た人に会ったが知ってゐるのは少年時の事とて間違ってはと思って控へてゐた。イソガヤに行き畫を託し、原二氏のためと余の分のフチをあつらへすぐに芝川へ行く。(後略)
劉生日記 二
p.279-280
  
10月29日
今日は生長する星の群れのための公演会に出演するので上京。朝の中講演の艸稿を造る。蓁は関東銀行へ金をとりに一足先に出て一時一分の汽車に藤沢で落ち合って乗る。新橋の二階で少しおそい昼食をとり、蓁と別れ、イソガヤへ行く。例の大阪の芸術院への出品の画を託そうとて也。ところが上田天昭という男が山師で売れた金をなかなかよこさぬとかので出品は止めることにして画はイソガヤへあずけ九時に東京駅に持ってきてもらうことにしたがとうとう持って来なかった。(後略)
摘録 劉生日記
劉生日記 二
p.141
p.304-305
  
11月14日
今日は曇天、降らねばよいがと思ったが降らなかった。展覧会中天気にしたいものだ。十時三十九分の汽車で上京のつもりの処その前の汽車が二三十分おくれたのでそれにのれる。新橋の二階で昼食。昨夜上田天昭から電報で出品の催促が来たので断りにくゝとうとう出品する事にして、イソガヤに行き、いつぞや持って行って出品見合すことにしておいてあった、二階窓外の秋と、麗子裸像の水彩とを発送たのむ。(後略)
劉生日記 二
p.322-323
  
12月1日
九時頃離床。畳屋が来て二階をやっていゐるので仕事にかかれず朝から横井と新しい土俵で角力とる。(中略) ○磯ヶ谷から畫とフチが朝の中届いてゐて、横井がだしてくれた。
劉生日記 二
p.340-341
  
12月19日
今日は富本君の展覧会や暮れの買い物に上京。 十時三十九分の汽車にのる。(中略)新橋の二階で昼食芝川氏に電話かけたが留守、それから磯ヶ谷へ行き二十号と二十五号の額ぶちあつらえる。そこで埴原女史に会う。(後略)
摘録 劉生日記
p.152
 

劉生日記 大正11年 (1922年)

1922年 大正11年 1月4日九時頃離床。朝食後二階で蓁に三味線を弾かして、河野に長唄をきかせたが三味線がうまくないので、素でうたふ。それから久しぶりで勧進帳のレコードをかける。昼頃から蓁麗子、河野夫婦と、椿へ行く。椿では羽根ついたりして遊ぶ。余は羽子板をピンポンの様にしてつくのが上手だ。三時頃椿夫婦や妹や菊子ちゃんなどと家へ来る。女達は階下でさかんにかるたをとってゐた。余等は二階でいろいろ畫の話などに花が咲く。おのおのの昔の畫にあくがれた子供時の思ひ出話なども出る。河野が、長野市の共進会の展覧会にその楽隊のうたをうたひながら毎日行った話や椿が雪どけの晴れの日に書店の窓に「みつゑ」を見出した時の話や、余の、銀座尾張町の勧工場後へ油畫の常設展覧場が出来て毎日二銭か三銭握っては走ってみに行ったらしまひに、そこの人が坊ちゃんは毎日来るからもう御足は入らないと云ってくれた話など皆なつかしい話だ。(後略) 劉生日記 三 p.6-7
   1月31日雪は大してつもりもしなかったがとも角も白くなってゐた。八時半におきる。 今日は河野の展覧会へ行くので上京。十時三十九分の汽車に間に合わないかと思ったがやっと間に合ふ。新橋で下車東洋軒で昼食。磯ヶ谷に行く。 二十号と二十五号まだ出来てゐず。一平さんが西洋から帰ったについて向こふから持って帰ったふちをみせてもらったところ、非常にいいのがあって、ほしくてならなかったがそれは向こふで正宗得三郎が先鞭をつけてしまったとかで駄目。しかしもう一つあるかも知れぬとか。あったらゆづってもらふ事にする。古いイタリヤのふちで図のような形で、平らな所に下地が金で黒緑色で上からの金の模様と字とをぬいてぬったものだが古びて木がかけてうるしもひびが入ってゐて実にいいふちだ。こんないいふちはみた事がなく全く今迄のふちがいやになってしまふ。 (後略) 図参照 劉生日記 三 p.39-41
   2月24日半晴夜大雨大へんあたたかし  今日は河野が東京へ帰るので余も買ひもの方々一緒に上京することにし、蕃も一緒に行くといふ事になり三人で出かける。 河野は一足先に椿へ行ってゐた。十一時三十七分の汽車にのる。一時新橋着。二階の東洋軒で三人で昼食。今日は前さいも魚も肉も皆うまく菓子はいちごで大変おいしくたべた。河野は一杯のビールでまつ赤になつてゐた。それから磯ヶ谷へ行く。途中本郷町の通りのおもちゃ屋で麗子におひな様の飾り道具漆ぬりの三つ道具た其他河野が麗子へお菓子や小さい人形とつてくれる。それから磯ヶ谷へ行く。一平さんにしばらくぶりであうふ。洋行から帰つてはじめて会ったのだ。いろいろむかふでとつて来たふちをみせてもらひ二つだけゆづつてもらふ事に、猶向ふから持って帰ったふちの見本の型で、二十五号や八号三十号などあつらへる。それから銀座に出て信盛堂でステツキのこわれたのを二本なほす事たのみ、市街自動車で日本橋迄。(後略) 劉生日記 三 p.70-72
   3月16日十時頃離床。十一時三十七分の汽車で上京、京はまた帝劇見物の日也。(中略)それから信盛堂に行きステッキ受けとり、白鳳社に寄ったらイタリーのちょっといいふちがあった。磯ヶ谷へ寄ったら三十号のフチが出来ていたが博覧会で誰もいず分からないので明日送らせる事にして、それからまだ時間があるので神田へ行き仏蘭西書院へ行く。(後略) 摘録 劉生日記 p.172
   3月18日九時頃起きる。中島は横堀のところへ行ってゐたがぢき帰ってきた。二階で畫のはなしなどしてゐたら師匠が来て、ひなづると、八景とつるかめをうたふ。気持ちよろし。中島は長与へいってそのまま浜松へ帰るとて」、昼頃帰る。それから二人麗子髪飾りの図にかかる。大分はかどりもう一日二日で仕上がる。仏蘭西書院から小包でエドワドの色少し届く。仕事おへる頃、磯ヶ谷から三十号のフチが届く。今書いていゐる畫のふち也。大喜びにて、早速入れてみる。 大へんよく合ふ。中々いヽふちだ。やはり古い型だけにホツコリしてゐて面白い。外の方の刻み方に少し不足があるだけだ。中々畫もフチに入れたらよくなつた。中央部がかつちりとしまつてはじめ出したい感じが更に強く感じられた。 この畫は中々いヽものとなるだらう。もう二日程で仕上がると思ふ。(後略) 劉生日記 三 p.99-100
   3月25日朝杉浦清さん来訪。(中略)一時四十九分の汽車で今日は椿と、春陽会の会へ出かける日。新橋で下車、磯ヶ谷で、十五号と二十号ノフチをあつらへ八号の新しい型のフチをあつらへる。(後略) 劉生日記 三 p.109-110
   5月17日九時頃離床。昨日今日かなり寒いので少々風邪気なれどたいした事なし。蓁は、今日は余の旅行用のもの買ひに上京、磯ヶ谷へも用あり。(後略) 劉生日記 三 p.173-174
   5月19日九時頃起きる。十一時ごろから仕事にかかる。志賀が珍しくやってくる。(中略)志賀が来ると間もなく磯ヶ谷のじいやが来て、展覧会へ送る画の荷造りする。用意の日まで間に合うように祈る。(後略) 摘録 劉生日記 p.185
   5月29日今日は展覧会最終の日。例により十時三十九分の汽車で上京。(中略)田中氏に出品画の写真全部とる事たのみ明日磯ヶ谷に田中氏までとどけてもらう事にする。(後略) 摘録 劉生日記 p.190
   6月12日今日は田中松太郎氏へ写真うつしに行ってゐる畫の発送その他の用で上京、蓁は買ひもので同行。十時三十九分の汽車にかつかつ二間に会ふ。新橋の食堂へ入って席に着いたら梅原に会ふ。梅原は芝居の畫をとも角も渡した由。家が今月中に出来ないとて困ってゐた。蓁は買ひ物に、四時二十五分の汽車に落ち合ふ約束で余は院線で万世橋迄行き田中松太郎氏のところへ行く。こゝも久しぶり也。写真は皆相当に出来てゐた。いろいろ畫の事たのむ。イソガヤに電話かけ万事わかる事にする。住友氏へは田中氏からとどけてもらふ事になり、金子氏へは新潮社にとりに来てもらふ事にした。万事滞りなく行く事を祈る。(後略) 劉生日記 三 p.205-206
   6月21日十時半ごろおきる。夜ふとんをはいだ故か少々ねびえの様で風邪気だが大した事もない。伊上から白樺の表紙の校正刷送ってくる。午后風邪気なので二階であたヽかくして少しねたがおおあせをかく。師匠が夕方珍しく着たのでさらふ。磯ヶ谷から展覧会出品後田中へ行って居た畫が届く。昨日の西郷さんからの手紙があつたので心配してゐたが案の定、やはりひどくオガクヅがついてゐて、一寸どうしてとつていヽか分からなかったがハタキではたいた上水をつけて布でふいてみたらとれた。これでいヽと思ったら、今度は布の木綿の細かいゴミが畫面にねばりついたので、こわい畫のブrシで水をつけてそれをとつたら今度はすつかりよく汚れがとれて安心した。これで西郷さんの方ものほせると思ふ。(後略) 劉生日記 三 p.217-218
   8月18日八時半頃離床。(中略)竹田の幅を早くかへす方がよいのと、住友氏へ畫を早くとゞけたいのと(金の都合で)で丸山が上京するといふので二つをもって来つてもらす事をたのむ。 二人麗子の方はいそがやから明日届けてもらふ事にしたのだ。 劉生日記 三
p.287-188


 

劉生日記 大正12年 (1923年)


1923大正12年2月25日今日は益田さんの家をみに行く日、そのほか磯ヶ谷、平山堂にも用あり上京、九時五十八分の汽車で上京。蓁は昨夜麻布へ泊っている。磯ヶ谷に行き、久米利助へ「笑童女」を送る事たのみ、そのふちをあつらえる。余の型はもうあきたので西洋型のものにする。その他今かいている椿の画やそれに類した形八号十号等西洋型のしぶいいいふちであつらえる。そこでわりに時間をとってしまいすぐ麻布へ出かける。(後略)摘録 劉生日記p.270
  3月20日昨夜は二時半、その上階下にねたので充分にねてゐない。 (中略) 小林を東京に使いにやり、平山さんへ行ってゐる畫の中二点早稲田大学の展覧会に出品のため磯ヶ谷にもたせてやる。 劉生日記 四p.93-94
  4月12日師匠が九時半頃から来ておこされる。 今日は午後から蒹葭堂へ昨日の劉君将来の支那畫をみに行くつもりなので仕事は止めて、長唄のけいこする。三番叟大分すゝむ。 一時四十五分の汽車で上京。雨はだいぶひどくふつてゐたが、出かける頃から段々はれた。磯ヶ谷まで俥、がくぶちの事たのみ、新橋迄引きかへし市街自動車にて上野迄、蒹葭堂に行く。 (後略)劉生日記 四p.121-122
  5月27日今日は曇り。十時ごろおきる。 師匠来る。朝食後久しぶりで長唄をさらう。(中略) 石井鶴三君も来る。五時過ぎいよいよ第一回春陽会も終わる。しかし相当に画も売れた。感謝する。会場を出て木村たちと木村の展覧会へ行こうと歩きかけると磯ヶ谷の一平さんが後を追ってきて「別嬪が、別嬪が」という。ハハア読売の加藤君からの手紙の婦人記者だなと思って引き返すと向こうから緑色の洋装の美人来る。(後略)摘録 劉生日記p.296-297
  5月28日六時半にめがさめたが昨日好古堂で知った今度の入札の畫を欲しい事でへんに興奮したり金を作る事を考へたりしてねむれず、八時半頃離床、何にしてもどうしても千円は金の用意しておかねばならず、倉田よりの三百五十円と浮世畫の北斎其他を三四百円に売りあとデウレルの本其他で二百円程作りなど思ふ。 (中略) 二時五十九分の汽車で上京、万世橋迄から電車にて神田まで、東条により本を売るから明日来てくれと云ふ。 余が古本を売るのはこれがはじめて也。それから泉屋により黄色一本とり、俥にて燕楽軒に行く。会員たちの外に一平さん等来てあり大阪の展覧会で講演することになる。雨がふり出したので俥で万世橋迄、それからタクシーで東京駅迄、九時五十五分の汽車で帰宅した。劉生日記 四p.174-175
  7月16日今日は、仲通に先日、唐畫をとりよせて置くと云った家があったので其処までt、小杉へ子昴其他をみに行く用と夕方から尾高へ行く用とで朝から上京、俥がきて大急ぎに支度して出かけ十時六分の汽車で上京。(中略) 五時過辞して俥にて仲根岸に尾高君を訪ふ。先日の椿花籠図を五百円と気がつかず持ち帰ったが御母さんと相談したが三百円位迄と云われて弱ってゐる様子であったがあの畫は五百円より下では一寸困るので余も困ったが磯ヶ谷に電話かけてもう一つの花籠の図を持ってきてもらひこれを三百円にしてあげてよろしいといふ事にしたがまだ考え中。 (後略)劉生日記 四p.230-231
  7月25日朝から上京、俥がきて大急ぎに支度して出かけ十時六分の汽車で上京。(中略) 五時過辞して俥にて仲根岸に尾高君を訪ふ。先日の椿花籠図を五百円と気がつかず持ち帰ったが御母さんと相談したが三百円位迄と云われて弱ってゐる様子であったがあの畫は五百円より下では一寸困るので余も困ったが磯ヶ谷に電話かけてもう一つの花籠の図を持ってきてもらひこれを三百円にしてあげてよろしいといふ事にしたがまだ考え中。 (後略)劉生日記 四p.239-240
 

劉生日記 大正13年 (1924)

1924大正13年3月8日九時半頃起きる。朝食後椿と松木から美術倶楽部の入札会へ行ってみる事にして出かける。(中略)椿同伴内藤さんを訪ねる。宅より電話にて十日に磯ヶ谷にて地方出品の荒撰りをするからと梅原から電話があつたから明日出発せねばならぬといつて来る。内藤君を辞し椿と帰宅。しかし切符は昨日寝台券をとつたためそれが代へられないためやはり十日の夜行にした。多蔵来てあり、椿もてつだつて、三十号麗子立像の箱を作り荷造りが出来る。明後日チッキにて持つて行かれる由無事運ぶことの出来る様に祈るものだ。(後略)劉生日記 五p.86-87