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いそがやアートCV 有限会社磯谷商店 文化事業部
(1998年5月の有限会社磯谷商店HP立ち上げ時より情報の蓄積をしていた「ギャラリーいそがや・作家ライブラリー」が発展したサイトです。CVはCurricurum Vitaeの略。)
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・2010年6月28日 リニューアル公開
 

更新履歴

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和田吉美(11/21)
妹背裕(11/18)
和田吉美(11/18)
荒井左紀子 (11/13)
本間一恵(10/24)
関島寿子(10/24)
山田瑞子 (10/18)
石垣むつみ(10/18)
関島寿子(10/11)
松島さくら子 (10/11)
村本真吾(10/11)
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中島敦子(10/11)
豊田正秋(10/11)
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深井美智子(10/6)
加藤文子(10/6)
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中村ミナト(9/30)
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深井美智子(9/25)
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原田ユリア (4/13)
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中村ミナト (4/10)
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石垣むつみ (4/8)
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加藤文子 (4/8)
出口絵衣子 (4/8)
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重松あゆみ (3/20)
三尾秋子 (3/20) 
大森澪 (3/15)
赤尾ふさこ(3/15)
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小西潤 (2/15)
稗田麻琴 (2/15)
長者町岬 (2/14)
妹背裕 (2/3)
徳丸鏡子 (2/3)
赤尾ふさこ (1/7)
浅見貴子 (1/6)
赤尾ふさこ (1/6)

関島寿子 (1/5)
 

黒田清輝 日記


黒田清輝日記  http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/k_diary/index.html
   
月日日記
1989年
 (明治31年)
12月30日十二月三十日 晴(靜浦日記)
今朝九月松方正作君出發 見送として新橋停車場へ行く 十時十分の汽車ニて大森迄行く 西園寺氏を訪ふ 留守なりし故崋山の巻物を置て歸る 今日大森ニ行きし用向ハ此の巻物を侯爵ニ御覧ニ入れると云約束をして置たからの事
新橋の有樂軒にて大いそぎでめしを食ひステーションで連中と出遭ひ十二時半の汽車ニ乘る 先づ之れで一と安心也 連中ハ久米 佐野 磯谷也 日暮ニ沼津ニ着 本町の杉本和平方ニ泊る 
1989年
 (明治31年)
12月31日十二月三十一日 (靜浦日記)
朝十時頃宿屋ヲ出 濱を廻り渡しニて我入道へ渡り十二時半頃靜浦保養館ヘ着ス 此日地引など見て暮す 夕方六時過の汽車ニテ佐野東京へ歸る 
   
1901年12月30日十二月三十日 晴 (伊豆旅行記)
午後三時二十五分を期して新橋停車場ニ聚る 久米桂 佐野昭 磯谷治平 長尾建吉及び拙者の五人 治平は建吉の兄にて五十五の親爺なれども矢張呑氣至極の人物なり
横濱にて乘換の時中々な人にて下等に入る事叶ハず 助役及車掌の取計らひにて大船まで中等に乘るの榮を得 一同「出がいゝナ」と大に喜ぶ
大船に到りし時ハ全く夜に入りたり 下等室には湯たんぽも何もなく寒し 三島まで行く筈のところ議が更つて國府津に下車す 六時頃也
蔦屋の別荘ニ入る 不景氣の年の暮故避寒のお客少なしと見て六號と云ふ廣々とした離家を吾々五人にて占領す 潮風呂に入りあたゝまりたる後寢床に入り久米 佐野等と十一時頃まで寢話をした 
190112月31日十二月三十一日 晴 (伊豆旅行記)
八時に起る 昨夜は大分寒いやうで有つたが今朝起て日當に出て見ると中々いゝ心地だ どうしても東京よりハ暖かいに違ない 宿屋にてハ給仕女のよしあしは居心地の上に大に關係する次第であるが昨夜より吾々の世話をした秋と云女はこう云ふ場處柄の者に似合ハずうぶなところが有つて氣持惡からず 下男もあつさりして居てよし
九時五十四分發の氣車に乘り三島で乘り換て大仁にて下車 時ニ一時也 大仁より修善寺まで一里八町の道はがたくり馬車にて走る 二時淺羽といふ宿屋に着き入口の向ツて左手の古き二階に陣取る 三時に漸く晝飯にあり付け 氣分惡き程食ひ込み散歩に出掛く
頼家の墓より宿屋の建ち並びたる邊を過ぎ修善寺へ廻ハる 十二歳の時に母に連れられて始めてやつて來て三十六歳の今日再び此處を視ることゝ爲る 此の二十餘年間に拙者の一生に取て隨分貴重な年月は過ぎ去つて仕舞つたが修善寺は見違へる程にハ變つて居ない 勿論宿屋などが大に立派に爲つて居るにハ違ないけれども矢張大仁までの道路にハ石ころ多く桂川の中に在る獨鈷の湯の鳥籠然たるくづれかゝつた垣も記憶に存したる儘也 湯に入り八時頃に飯を食ふ 宿屋より晦日蕎麥の馳走あり 階下に厄拂の聲聞ゆ 治平老人一杯機嫌で維新前の東海道の道中の有樣などを語り間も無く寢て仕舞ふ 久 佐 長の三人はカルタを始めて忽ち夢中と爲る 拙者は仕方が無いから寢床の中に横倒しに爲つて居て火鉢の火に炭を繼ぎ高く積だり潰したりして居る 後遂に餅燒を仰付けられたり 長的注文の酒も來りカルタの止みたるハ正十二時也 まあまあ目出度き年の暮と云ふ可し
十二時が過て來年となり餅を食ひ又キンピラごぼうと長的持參の鰻の肝の佃煮とにて酒を飲む 誠に心地よき年の始めだ 午前一時に眠る 
1902年1月2日一月二日 晴 (伊豆旅行記)
九時に起て直に湯に入る 温泉場の愉快は朝の面洗を別にやらず寢ぼけ面の儘にて湯に入ることなり 夜寢る前に一と風呂やつて來るのも決して惡くない 今朝も御馳走の雜煮二杯で腹を太くした
今日歸途に就くことゝ極つて勘定を云ひ付く 三十一日の午後より今日迄まる二日二た晩の費用は總計十二圓五十二錢 席料は八疊二た間にて一圓 湯錢五人分四十四錢 夜具五人分八十錢なり 別に茶代三圓下女に一圓を與へたり
序に途中の汽車馬車等の賃錢を記せバ東京より三島までの汽車一圓十六錢 三島より大仁まで二十錢 大仁より修善寺までの馬車は一人前七錢なれども六人乘の馬車を五人にて借り切りたることゆへ割前少しく上りたり
修善寺にハ牛乳も牛肉も亦シガールも賣つて居るから不便は無い 又箱根其他の流行場のやうに惡ずれに爲つて居ないから席料其他も程のいゝ所にて吾々の程度に適當なり
十二時前にがたくりに乘つて立つ 歸りハ下り路だから十二時半頃に大仁の停車場に着く 大仁と修善寺間に危嶮な場所が二ケ處有る 一は横瀬の森の横手の坂路と一ハ水昌山の下の橋だ 此の二ケ處でハ度々馬車を覆すと云ふ事だ 橋の方は最もあぶない 今は橋の欄干が四五間も落て仕舞つて居る 之れも馬車を打つけて破潰したのだそうだ 用心深い人は徒歩するに如かずだ 小供の時に修善寺から大仁に饅頭を買に來た事が有つたが其頃にハ此の水昌山下に橋は無く渡し舟であつた 不思議な岩山が有つて其下を深い川が靜に流れて居るところが有つたと思つて居たのは即ち此の水昌山に狩野川だ 城山などハ少しも覺えて居なかつた
汽車の出るまでに半時間あるから停車場前の中清といふ茶見世に立寄り茶漬を食ふ 十六錢なり 酒も命じて長尾兄弟と飲む 十八錢なり 茶代五錢置く
一時十分頃に發車す 二時頃に三島に着き長尾兄弟と別れて久 佐と三人連に爲る 磯谷 長尾は興津へ向ふ一と寢入りして目を覺ました時は山北にて佐野が吾々の爲めに鮎ずしを買つて居るところであつた この鮎ずし餘り美味くなかつた
國府田に來て又辨當を一つ食ふ 馬入川の邊より暗くなる
七時新橋に着く 久米は品川にて下車し佐野にハ新橋にて別れたり 
1904年5月29日五月二十九日 日 晴
漸次御快方ノ樣子ナリ 小西氏午後二時頃來診 本日午後一時過沈沒艦將校ノ葬式有リ 大體ニ於テハ廣〓中佐ノ葬儀ニ同ジ 見舞トシテ午後三時頃黒田清二氏及山本翁ノ妻君來訪 山本ノ妻君丈ハ二時間程語リタリ 後芍藥ノ花ヲ描カントシテ筆ヲ執リ十五分間斗ニシテ中丸君來訪 暫時語ル 是レニテ夜ニ入ル 夜食後直綱來談 又兒猫ノ戲ムルヽヲ觀ル 而シテ九時頃ヨリ十一時半マデ來月一日ヨリ一週間開設ノ獻金展覽會へ出品スベキ油畫ノ整理ヲナス
(發信)高信ヘ横濱ニテ撮影ノ寫眞贈與ノ禮 磯谷一平ヘ油畫運搬ノ件依〓 
1909年 
(明治42年)
12月31日十二月三十一日 (湯ケ島日記)
午前十一時新橋發 同行五人 久 米 竹澤 佐野 磯谷及拙者也 午後 六時頃修善寺野田屋着 數年來泊リ ツケノ奥二階ノ一ト間ヲ占領ス 座 敷ノ樣子等別ニ變リタル事ナシ 昨 年ヨリ進歩シタルハ電話ノ新設セラレタルコトナリ 料金ハ五分ニ付六十錢ナリト云フ 竹澤君ニ〓ミ同君方マデ當所着ノ旨ヲ通ジ拙宅等ヘ轉告スル事トセリ 野田屋ノ電話番號ハ修善寺ノ八番ナリ 食物ハ昨年ニ比シ少シハ善クナリシヤウニ見エタレドモ鮪ノ刺身ハ全ク腐敗シテ食フ能ハズ 牛肉ハ小便ノ如キ臭氣アリテ味モ惡シ 但酢章魚ハ上等也 魚類ハ三津ヨリ來ルナリト云 十時半頃二囘目ノ入浴ヲ濟マセ一寸床ニ入ル 久 竹 佐ノ三人ハ例ノ如ク電燈下ニ向ヒ合ヒ「ちいばい」ハ按摩ヲ呼ブ 十一時衆議一決餅ヲ取リ寄セテ食フ 十二時過寢ニ就ク
1910年 
(明治43年)
1月1日一月一日 (湯ケ島日記)
夜中大雨ナリシガ今朝ハ霽レタリ 馬車二臺ヲ雇ヒ十時半湯ケ島ヘ向フ 一臺ノ御者ハ昨夜吾々ヲ大仁ヨリ送リタルモノニテ中々ノ新聞學者也 韓國ノ合邦問題ヨリ渡米實業團ナドニ就テノ話ニ至ルマデ色々話掛ケ而モ漢語七分ニテ村會議員ハ愚カ立派ナルモノナリ 今日モ青羽子ニテ暫時休息シ蜜柑ヲ食フ 一昨年此處ニテ櫻@(馬肉)@ノ着ケ燒ヲ食ヒタル事ナド「ちいばい」@(磯谷事)@ト話シ合フ 先日狩獵官連ノ馬車ノ轉〓セシ屈曲セル新開ノ坂路モ無難ニ通過シ亦一昨年ノ一月五日ニ吾々ガ命ヲ拾ヒタル場所モ久シ振ニ打眺メ午後一時前湯本屋ニ着ス 此宿屋殊ノ外繁昌ニテ幾ンド宿泊ヲ謝〓セントスル有樣ナルニハ一同大ニ閉口ス 併シ漸ク話が纒リテ下ノ座敷ヘ通ル 一體此家ノ主婦ハ此界隈ニテ評判ノ才女ト聞ク 應對振中々上手ナリ 下女ハ一昨年ノ者一人モ居ラズ 十八九ト見ユル當家ノ娘下女ニ加勢シテ給仕萬端ノ用事ヲナス 其動作上品ニテ氣持好シ 食物ハ不相變イカニモ田舎式ナレドモ斬ハ場所柄トシテハ當然ノ事ナルベシ 温泉ノ加減ハ修善寺 船原 吉奈等皆此地ニ及バズ 夕刻一同打連レテ散歩ヲナシ夜食後二三ノ年始〓ヲ認メ又連名ニテ菊地ヘ宛タル判決文ナルモノヲ書キ大ニ笑ヒタリ 
 1月2日一月二日 (湯ケ島日記)
今日ハ西風〓ク寒サ少シク加ハル 併シ東京ニ比スレバ餘程暖カナリ 寒暖計四十度位 午前十時頃ヨリ世古ノ瀧ヨリ五六町行キタル處ニテ渓流ヲ寫ス 午後久米 磯谷ト三人連ニテ天城街道ヲ探險ス 十五六町行キテ囘ル 磯谷ノミ淨蓮瀧マデ行キタリ 同人ノ話ニ此瀧ハ華嚴ニ能ク似テ小ナルモノナリト云フ 竹 佐二君ハ今朝ヨリ狩ニ出掛ケ雉二羽ヲ獲タリ 大出來ナリ 
 1月3日一月三日 (湯ケ島日記)
今日モ少シク風アリ 午前世古ノ途中ニテ木立ヲ寫ス 二時頃宿ニ歸ル 小林萬吾氏來着 四時過ヨリ再ビ外出 西平ヨリ西北方ヲ望ミタル晩景ヲ描ク 獵師連今日ハ何ノ獲物ナシ 夜ハ皆例ノ如ク車座ヲナス 拙者ハ九時頃ヨリ眠ル 十二時頃皆ノ聲ニ目ヲ覺シ起出デヽ入浴セリ 
 1月4日一月四日 (湯ケ島日記)
午前十一時迄ハ曇天ナリシガ後晴レタリ 今日モ午前十時頃ヨリ世古ノ方ヘ出掛ケ禿山ニ日ノ當リタル樣子ヲ寫ス 是レニテ持參セル四枚ノ畫布書キヲ盡シタレバ午後ハ四時頃ヨリ昨日ノ場所ヘ行キ昨日ノ畫ヲ修正ス 狩ノ方ハ成績至テ不好 亦獲物ナシ 併シ第一日ノ雉二羽ヲ今晩食フコトヽナル 今夜相談ノ結果明日歸京ノ事ニ決ス 今日午後二階ノ上等ノ座敷ニ移リタルニ惜シキ事ナリ 滯在中大抵毎日午前七時半頃ニ起キ午後十二時前後ニ寢ニ就ケリ 先年ノ如ク笑ヒ噪グ事ハ無カリシガ不相變連中ノ面白キ談話ニテ體屈セシ事ナシ 此宿屋ハ食物ノ點ニ於テ不充分ナレドモ居心地好キ處ナリ 
 1月5日一月五日 雨 (湯ケ島日記)
午前十時二十分頃出發 同勢六人馬車二臺ニ分乘シ十二時十分頃大仁ニ着ス 停車場前ノ茶見世ニ休ミ大急ニテ中食ヲ濟マセ十二時頃ノ汽車ニ乘ル 三島驛ニテ「ちいばい」ニ分レタリ 「ちい」ハ此處ヨリ靜岡ヘ行ク 五時頃新橋ニ着シ一同牛屋今朝ニ入ル 九時過歸宅ス 雨中ノ湯ケ島ハ實ニ畫趣アリ 他日此景ヲ描寫スルノ機會アラン事ヲ望ム  
   
1914年11月21日十一月二十一日 土 曇
午前十一時過ヨリ〓究所ヘ赴キ二時過歸宅ス 少シク庭前ヲ散歩シ薔薇花ヲ採リ來テ之ヲ描ク 夜ハ島田 平田千秋 長尾一平ノ諸子ト語ル 長尾一平ニ大阪 ヨリノ送金ヲ渡ス
1917年
(大正6年)
1月17日一月十七日 水 雨
午前十一時半頃登校 受持ノ授業ノ外二三ノ〓場ヲ見〓ハリ批評ヲ加ヘ後 長原 中村ノ二氏ト午後二時前マデ種々授業上ノ事ナド語リタリ 歸宅後郡司子が留守中ニ持參セル畫會ノ規定案ヲ修正ス 夜磯谷一平ヲ呼ビ光風會ヘ出品スベキ古蘭先生ノ素畫ノ額〓十點其他二三ノ額〓ヲ註文セリ 今夕刻坂井氏送附ノ原稿ヲモ校訂シ前記ノ郡司子ノモノト共ニ投函セシム 又本日ハ櫻井ヲ三越 極東時報〓 丸木寫眞〓等ヘ遣シタリ 
1917年
(大正6年)
5月27日五月二十七日 日 晴
吹上御苑内ニ於テ劍術御前試合ノ御催アリ 陪觀ヲ許サルヽ趣御達アリタレバ午後一時參内シ四時過終リテ退出セリ 晩餐前ヨリ左記ノ諸氏來訪
大迫經安 中澤弘光 田中岩次郎 清水良雄 長尾一平 長尾ヘハ過般來註文ノ額〓代全部及在巴里青山熊治ヘ送ル可キ花環ノ割前三十法其合計金二百圓也ヲ拂ヒ渡ス
1921年
大正10年)
3月20日三月二十日 日 曇 風雨
十二時半〓川侯邸ニ到ル 水野子モ來リ 三浦男ト三人ニテ午餐ノ卓ニ就キ明日總理招待ニ關スル相談ヲナス
(欄外 一平暇乞) 
1922年
(大正11年)
2月23日二月二十三日 木
〓究@(休三部)@〓育行政 磯谷店立寄ル 夕刻小笠原伯來訪 晩餐後河田邸小集 水野子 青木子 二時水電